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教育勅語

だいぶ下火になりましたが、森友学園の問題は色々なことを考えさせられました。

「忖度する」という言葉など、私のこれまでの人生の中で恐らく一度も使ったことは有りませんでしたが、このところ知り合いの間でよく使われています。

この森友問題で大きく取り扱われたことの一つが、教育勅語です。

これまで教育勅語に対する私のイメージは、戦前の教育に使われた天皇制を礼賛する教材、くらいのものでした。

 

しかし、園児が暗唱している姿や、ネット上で若い芸能人が「良い事言ってるじゃない」という発言をしているのを見聞きしているうち、はっと気付いたことがありました。そう、私は教育勅語を読んだことがない、という事です。

賛成するにしても反対するにしても、現物を読んだことがないのでは話になりません。そこで、まず原文を読んでみました。

 

「チンブンカンブン」というのが最初の感想です。

カタカナと漢字で書かれ、句読点がない文章がこんなに読みづらいものだとは思いませんでした。どこで区切って文章を読んだらいいのかわからないという事が、読み解くという作業をこんなに難しくすると初めて分かりました。

そこでまずは句読点が付いた「訳文」を読んでみました。だいぶわかりやすくなったものの、漢字そのものの意味が分からない言葉が結構あります。日本人として55年生きて、政治の世界の言葉も含め世間並みの漢字に対する知識はあると思っていましたが、戦前の子どもたちが読んでいた漢字が読めないっちゃーどういうことだ、とちょっとショックでした。

 

そこで今度は分からない漢字の意味を易しく解説している「訳文」を読みました。ところが、この「訳文」が翻訳者によって恣意的なのかどうかまでは分かりませんが、結構違っているんです。例えば教育勅語の冒頭は「朕は」という言葉で始まっていますが、これを「私は」とだけ訳をされているものがありました。「私は」という言葉だけだと、世の中の多くの人が主体的に「自分は」と言っているように読み取ることも出来ます。つまり「朕は…と思う。」を「私は…と思う。」と訳をしてしまうと、原文の意味を正確に表しているとは言えないという事です。なぜなら教育勅語の主語が誰なのかを把握することが、これを読み解く一つの大きなカギになるという事です。

そして、夫婦仲良くとか友達を大切にしなさいという言葉が続き更に最後に、国に事あれば全てを国にささげなさいという内容で締めくくられます。

 

ヨーロッパでは「ノーブレスオブリージュ」という言葉があります。社会的地位がある人たちが普段市民の税金などで食べて過ごすことができるのは、いざ事あらば「税金で食べさせてもらっている人々」が税金などを納めている人々を守る為に前面に立って自分を犠牲にするからだという考え方です。一方この教育勅語の最後の部分は、普段も政治家などを税金で食べさせている「市民」が、事が起こった時も前面に立って国を守りなさい、という事です。

 

戦争はそのほとんどが国家間で起こり、戦争をおこすのは政治家です。しかし今の戦争で実際に戦うのは、戦争をおこした当事者たちではなく、正確な情報などを得られない立場にある市民です。あまり詳しくわかっていない者同士、憎しみ合ってもいない者同士が殺しあうというのが今の戦争です。かつてのように為政者が体を張って戦場に行くという事はもうないでしょう。そういう意味においても、教育勅語は既に時代と合っていない、と私は思います。

 

今回の森友問題が起こって、人と議論をするとき、当たり前かもしれませんが、焦点を自分で整理し出来る限り客観的な視点でそれを見ていくという事が重要だと改めて認識しました。森友学園に子供を通わせていた保護者の皆さんは、自身で教育勅語を読み解いたうえで通園させていたんでしょうか?もしそうだとしたら、それはそれで注視しておかなければならない世の中の傾向だと感じます。

| ミホ | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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